バングラデシュ LIVING BLUEと共に

今回は、バングラデシュ北部のラングプール近郊でLIVING BLUEと共にカンタ刺繍をする女性たちのことについてお話します。

 

Jelicaさん(写真中央)は、地区のリーダー・マネージャー的な存在です。


彼女が中心になって新しい縫い子さんの発掘や、スキルに応じた仕事の割り当て、品質管理、技術指導を行っています。彼女の元に現在25人の縫い子さんがいるそうです。必ずしも彼女のお目がねに適うものばかりでなく、品質が満たないものはやり直しさせるそうです。根気のいる作業なだけに、ドロップアウトするひとも多いそう。

 

それでも頑張るのは、作業そのものが気性に合っているか、さもなくば、旦那が逃げた・働かない・女の子を嫁がせる持参金を用意しなきゃいけないなど、切実にお金に困っているか、どちらかだそうです。

 

Hasnaさん(本人は40歳といっていますが、回りの人は25歳だ、いや30歳だ・・と。誰も本当の年齢は判らないそうです。)

 

 

彼女は、まだ最近始めたばかりの見習い過程。ダルマットといわれるガムチャを使った3枚重ねのカンタに取り組んでいます。2人の子供がいて、農作業や家事、子育ての合間を縫って、一日2時間程度縫い進めています。

 

私たちが訪れたときはハダカ電球ひとつの薄暗い室内で縫っていましたが、普段は殆ど屋外で縫い物をするそう。ただ、冬になると埃っぽくなるので、室内ですることも多くなるそうです。ここにもソーラーランタンが必要かもしれません。


Jolinaさん(写真右手前) 40歳前後


夫はダッカでガードマンをしていて、普段は2人の娘と3人で暮らしています。その2人の娘を嫁がせるのに、それぞれに最低20〜30万タカ(日本円で30〜45万円)の持参金が必要とされるため、カンタ刺繍に取り組んでいるそうです。

 

以前もカンタ刺繍をやっていましたが、夫について2年ほどダッカに住んでいたため、3年間縫物を中断。再開したところなので、自ら見習いレベルからやりたいと申し出て、ダルマットカンタに取り組んでいます。Jelicaさんに言わせるとJolinaさんはすでにもうひとつ高いレベルの仕事(=報酬も高い仕事)もとれるのに、自分はまだまだと、謙虚にそれを断ったとのこと・・・。副収入とはいえ、この仕事で彼らはダッカの縫製工場の工賃の倍近い収入が得られます。この仕事によって彼女たちの生活は確実に豊かになっているとのこと。お金だけでなく、お金を家に入れているということで、家庭内でも地位が向上し、DV(家庭内暴力)などからも救われることが多くなったとか。

 

何よりも生まれ育った土地で、家族が離散せずに一緒に暮らしていけることは代えがたいこと。この取り組みは、お金はもちろんのこと、お金に換算できない豊かさを村の暮らしにもたらしています。

 

NGOの活動のことは「バングラデシュ-LIVING BLUEと共に 廚暴颪い討い泙垢里如△修舛蕕發翰くださいね。

http://blog.calicoindia.jp/?page=3&month=201411

 

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バングラデシュ LIVING BLUEと共に

バングラデシュのLIVING BLUEの訪問、続きです。

 

LIVING BLUEの布は、Rangpurの町から外れたのどかな田園地帯でつくられています。生産を陣頭指揮するのは、生産責任者のモニ。柔らかな話口調ですが、彼の元でとても厳しい、一貫した製品づくりが行われています。

 

写真はミシャエルと生産責任者モニ。

 

生産は、〕染粉の生産、▲轡椒蠅僚猗、染め、ぅンタ刺繍という4つの過程で行われます。

 

藍染粉の生産:

収穫したばかりの藍を農民から買って(市場を通じての買い付け)2時間以内に発酵のための槽に入れます。そして約40時間、水のみを加えて竹などでプレスして自然発酵させた後、酸化・乾燥させます。乾燥させた藍は粉末にされます。LIVING BLUEでは、海外や地元の藍染業者・職人にも藍染粉を販売しています。

 


シボリの準備:

(この過程はLIVING BLUEが苦労して確立した技術で、インド・バングラデシュ地域ではすぐに他の会社に真似されてしまうことから、あまり公開したくないといわれています。雰囲気だけご覧ください。)

 

アラシは太パイプに巻いてつくられてます。(日本ではもう殆ど見ることのない技術です。)職人さんが脇目もふらず一心に巻いていく様は見事です。

 


また、マクマとよばれるシボリは、女性たちが染め場のそばでカンタ布が敷かれた床に座り、一枚一枚縫い込んで準備します。それを最終的に締め上げるのは力のある男性の仕事です。


 

 


染め:

染めはインドでは多くの場合男性の仕事ですが、ここでは女性も染めの過程で活躍しています。製品のサイズや素材にもよりますが、ここの藍の場合、1回、大体15−20分浸けるだけで濃い藍色に染まりあがります。これはインドで何度も藍染液に浸けこむ過程をみてきたばかりの私の目にはとても新鮮でした。

 

 

カンタ刺繍:

LIVING BLUEの近隣の5つの村の200人以上の女性が取り組んでいます。それぞれの村に、仕事をディスパッチしたり、技術指導したりするマネージャー的な女性がいます。彼女たちの厳しい品質管理のお蔭で、LIVING BLUEの製品はバラつきが比較的少なく、高度の技術を要する仕事、見習いでもできる仕事に振り分けられ、技術が上がってくるとより高い報酬がもらえる仕事が与えられます。



彼女たちの話はまた次回に詳しくしたいと思います。

(つづく)

 

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バングラデシュ LIVING BLUEと共に

ベンガルツアーの後半。インドの西ベンガル州を後に、お隣のバングラデシュにきています。CALICOのイベントでもお馴染みとなっているLIVING BLUEの生産現場を訪ねるためです。私にとっては2回目、5年ぶりのバングラデシュ訪問です。

 

LIVING BLUEのミシャエルと出会ったのはデリーのとあるイベントで。一面にインディゴ色と美しいカンタ刺繍に埋め尽くされた彼らの表現に圧倒され、日本でもこんなの見たことがないと鳥肌がたったことを覚えています。

 

それから、LIVING BLUEとCALICOのコラボレーションがはじまりました。彼らの製品を日本人に合うサイズにしたり、糸色や素材などのディテールを一緒に考えて変更したり。今年の夏はRongoというブランドで藍の板締めのゆかた布をご紹介しました。(もちろん来年もご紹介予定です。)

 

 

LIVING BLUEは、そもそもインド人のデザイナーさんとRangpurの地元の人たちで藍の栽培を復活させ、藍染を始めたところからはじまりました。

その昔、バングラデシュの藍は、Indigofera Tinctoria “True Bengal”といわれ、濃い色や高い定着率が評判でした。それを固めた藍片は、商品として欧州で取引され、通貨的な価値をもつこともあったそうです。ただ、英国の植民地化以降は搾取の手段として、藍栽培が強いられ、藍産業は戦後急速に衰えたといわれています。

 

写真は藍の種。


しかし、肥沃な土壌に藍栽培は合うようで、近年国際NGOのCAREが地元政府、LIVING BLUEの前身の社会企業と共に、政府の土地の貸出し、藍栽培の奨励政策を打ち出し、地元農民がメインの農業(主に米の二毛作)の他に収入を得る手段として藍栽培をはじめました。年間で約200ドルもの副収入になります。だいたい二毛作のタイミングと被らない4月、5月に種まきをして、6月に収穫するそうです。(他の時期でも収穫できるそうですが、搾取の歴史があるため、あまり無理な栽培の奨励はしていないとのこと。)今では110の周辺の村で栽培をするまでになっています。

 

よく日本人が技術指導したのですか、と聞かれますが、教えてもらうことはあっても、教えることは殆どないのです。彼らがアラシ、マクマと呼ぶ日本の伝統的な染めの技法を、インド人のデザイナーさんが確立し、村の染め職人さんや縫い子さんたちがそれを実現してきたのでした。(但し、そのデザイナーさんは、各出資者や村の人たちと一緒に同じペースで、特に資金的に続けていくことが難しく、とうに退いてしまったそうです。)

 

そこでCAREが中心的な役割を担い、人と資金を拠出して、今日まで発展させてきたのです。今はCAREが過半数を出資するも、徐々に現地にコントロールを移管しつつあります。

 

LIVING BLUEの成功には、CAREが導入した管理システム(納期や品質を徹底的にコントロール)があります。きちんと厳しく評価され、行き当たりばったりではない、取組みが多くのインドの団体と違います!CALICOもパートナーとして、日本での販売の結果や展望について説明責任を負っています。そこにはいい緊張感があり、だからこそいいものが生み出され、継続していくのだと思いました。

 

また、この取り組みによって、都会に仕事を求めていたひとたちが、その在り方を再考するきっかけにもなっているようです。都会に出て、僅かなお給料をもらっても、劣悪な住環境にも関わらず家賃や生活費は高く、家族と離れて暮らすのは不幸だと思う人々にとって、こうした地元や自宅で、都会の倍もの収入を得られる取り組みは希望そのものです。

 

こうした取り組みが拡がるお手伝いを微力ながらCALICOも続けていけたらと思っています。

 

村で刺繍をする女性たちと小林(写真 中央)。後中央は、LIVING BLUE/CAREのミシャエル。右は見学にきたドイツの開発機関のインターン2人。彼らからいろいろバングラデシュのことを学び、とても楽しい旅でした。

 

 

(つづく)

 

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グジャラートのアジュラック染め

先日、ベンガルのインディゴ染めの村を訪れたばかりですが、旅はまだまだ続きます。

 

ここグジャラートについては過去にも布の歴史やキャリコ博物館など、ご紹介してきましたが、私たち作り手にとってはまだまだ未開の土地でありこれから生産者に近いところまで入っていきたいと思っていた矢先にこの土地の人々の生活にも変化があるようで、探し求めた布が後継者不足で再生産できない危機に瀕しているという現実にも直面してしまい...



キヤリコの活動指針でもある『CALICOは、布を媒介にして、インドの農村に誇りと持続的な産業をもたらし、日本人に本来備わっていた衣に対する豊かな感性を呼びおこし、生活を楽しんでもらうための事業』という側面からもインドでただ単にモノを作ってもらうというだけでなく実際に現地に赴くことも重要だと考えています。

もっと肩の力を抜いて、人の手による自然に発生するムラやズレを生かした方が美しい、と時として私たち独自の要求は作り手にはオカシなことを頼む人たちだともうつるようで、今まで機械生産に劣らないよう完璧な仕事を求められてきた職人さんたちが困惑しながらもその過程を一緒に楽しんでくれるところから独創性や意義あるものが生まれます。

 

必ずしも効率的ではないこともありますし、様々な課題や難題も発生しやすくもなって今回は生産者の村へ繋がる玄関口であるアーメダバードで途方にくれてしまいましたが、ここインドはとてもとても広いです。あせらず今の自分たちにできることからひとつづつ取組んでいきたいと思う次第です。

 

 

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ベンガルのインディゴ染め MAKU TEXTILE

インド的な暑さも過ぎゆき、漸くデリーも秋を迎えました。

 

そんな中、久々のベンガル入りです。カディ生地の生産の進捗を確認したり、新しい現地のデザイナーさんに会ったり、美味しいお店に行きあたったり、はじめて英語が通じるドライバーさんと知り合ったり!、素敵な出会いや巡りあわせに恵まれた、新鮮でよい旅となりました。

 

その中でもハイライトは、MAKU TEXTILE(Santanu DasとChirag Gandhi)の新しいスタジオと染織の村の訪問。


彼らがあくまでも手仕事を大事に、少量生産でこだわり抜いてつくるインディゴ染めやカディのお洋服は、シンプルで着やすいものばかり。そぎ落とすこと、こだわることを徹底している美意識は日本人はもちろんユニバーサルに通用するもので、インドでも注目を集めるデザインユニットになりつつあります。


この秋のCALICOのイベントでも一部のアイテムをご紹介し、受注販売させていただいたところ大変な人気となりました。そんな彼らの藍染の現場は、コルカタから車で3時間半ほど離れた長閑な農村の一角。この日は、秋冬コレクションに使う生地を染めることになりました。今回はベンガル語でマクリといわれる蜘蛛の巣の模様です。マルベリシルクに染めたのですが、コットンとは色の出方が違うため、この日何度もやり直すことに・・・

 

 

 

 

ところで、その昔、ベンガルのインディゴケーキ(藍片・藍玉)はヨーロッパにまで流通するほど有名だったそうです。今は苛性ソーダなどで発酵させますが、昔はデーツやライムで発酵させていたそうです。発酵に時間がかかるため、つきっきりでみていないといけなかったとか。ものすごい労力がかかっていたのですね。今の彼らも、何度も染めて、やり直して、を繰り返す、、、途方もない作業に明け暮れていますが、そのトライ&エラーすらもしっかり楽しんでいる様子。今後は敷地内を掘って池をつくり、そこでの自然発酵にも挑戦していきたいそうです。

 

藍の染料をグツグツ煮て、発酵させるところ。すぐに独特の香りと共に藍の花がたってきます。

 

染め職人も化学染料をやるひとが増えてしまいましたが、MAKUの染めを手伝うMithun Sagarのように、天然染めに回帰する人も。ウレシイことですね。

 
春以降のMAKUのコレクションもどうぞお楽しみください。

 

 

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KYOTO 川島織物とテキスタイルスクール

日本にやってきました!

 

今日は京都鞍馬の方にある川島テキスタイルスクールでインド布産業についてレクチャーをさせていただきました。野田先生の元、タペストリーを作られる生徒さんたちに囲まれて、CALICOの生地やアイテムもいろいろみていただき楽しい時間でした。どうもありがとうございました。

 

 

 

その後、川島織物文化館と綴織などの緞帳を織っている工場をご案内いただきました。日本に帰ってきても慌ただしくしていた私にとっては、思いがけずの至福の時間となりました。


館内では、絵画的な図案を織る様々な技術がふんだんに展示されており、下絵だけでも唸ってしまうお宝が多数。ジャガードはパターンがきちんと決まっていて、色もしっかり番号で管理されていますが、綴織は色の織り替えや”割杢”といわれる糸の混ぜ合わせは熟練の職人さんの感覚でやっているそうです。(インドではジャガードの場合でも色は感覚でやっていそうな・・・)

 

工房の中もすごくキレイで整然としていましたが、自動車の車装用生地の事業をはじめるまでは、多分インドと同じような状況だったとおっしゃられていました。(取引先のトヨタ式がいきわたった結果なのだそうです。)


ただ、ジャガード織などやっていることはインドと同じ。機もほとんど同じ。川島織物さんでは、インドのサリーを織るのと同じようなシンプルな機で、宮内庁から依頼されて正倉院の上代裂の復元などをやっていらっしゃいます。なんと養蚕は皇后さまが担当されているそうですよ。


その絢爛な世界は、カディ・モスリンの工房というよりも、むしろ先日アーメダバードのCALICO博物館でみたゴブラン織りの世界、また先日Blogに書いたKharkhanahs(13世紀以降に誕生した官製工房)を思い出しました。 インドの生産パートナーを連れてきたら面白いだろうなあと何度も思いました。


川島テキスタイルスクール
http://www.kawashima-textile-school.jp/


川島織物文化館

http://www.kawashimaselkon.co.jp/bunkakan/

 

ペルシアの職人とイスラム商人 グジャラート州アーメダバードより

先日ちょうどタイミングよくインドにいらした京都ジャワ更紗ISISの石田さんと共に、織都アーメダバードのCALICO博物館を再訪してきました。


前回オリッサと東南アジアのつながりについて少し書かせていただきましたが、CALICO博物館のあるグジャラート州もインドネシアの王様から受注を受けて、有名なパトラという絣の技法で獅子模様などを織っていたとのこと、それらに影響を受けて東南アジアでもイカット(絣織)が織られるようになったのではないかと考えられているそうです。インド布の伝播力は当時からすごかったのですね。


CALICO博物館では、写真が撮れないことも幸いして、とにかく素直に感動し、興奮し、よく目にやきつけてきました。ブロックプリントが広く普及する以前の気の遠くなるような織や刺繍の技術。今はこうした手仕事の職人が仮にいたとしても、誰がオーダーをかけるでしょうか。現代では成功者はポロシャツにジーンズを穿いていますものね。そうやって技術や伝統が廃れていってしまうのは嫌だと思いました。

 

今回は前置きがとても長くなりましたが、今日は、そんなアーメダバードとも関わりの深い、ペルシアの職人とイスラム商人のお話です。7世紀、預言者ムハンマドが出現してからインドにもアラブの時代がやってきます。アフガニスタン、バルチスタンに続くペルシア帝国が没落し、アラビア海軍が現在のパキスタンやグジャラート州周辺に現れるようになりました。


実は、インド布に関して当時の歴史資料といえば、14-15世紀頃の綿布片がエジプトの諸都市で見つかったことくらいしかないのですが、13世紀トルコ・アフガン勢の支配下にあった北西インドに、モンゴル帝国が中央アジアを征服すると、ペルシア帝国から脱出した職人たちがインド大陸に流れこみ、デリースルタン王朝の庇護の下、ペルシアの影響の強い様々な文化が開花したそうです。


今でもインドでは、政府が手織産業・手仕事産業を保護・育成する側面を強くもっていますが、当時も官製の工房“Kharkhanahs”が各拠点に設立され、数多の私設工房と並んで生産を行っていたのです。


今私たちがインド的と思ってみている唐草模様や花柄の刺繍模様などは殆どこの当時のペルシアの職人がもたらし、ムガール帝国の財力を背景に確立されたといっても過言ではありません。それは刺繍職人や刺繍の贅沢を味わう身分の為政者がいなくなった後もブロックプリントのデザインとして引き継がれていったのです。


またその頃、ベンガルとグジャラートで生産された織物はHindus(現在のパキスタン・北インドの人々)の手によって東南アジアに輸出されていましたが、やがて、イスラム商人たちの手にゆだねられることになりました。それによって、イスラム文化が東南アジアに拡散していき、東インド会社が設立されるまでの数百年間、イスラム商人たちが東南アジアの香辛料をヨーロッパに輸出する中心的な役割を担うことになるのです。



写真はCALICO博物館。グジャラート州アーメダバードにあります。注:事前アポイントが必要です。

Source: History of Indian Textiles by Calico Museum of Textiles

 

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春のコルカタ

引っ越してすぐのコルカタ出張。あまり時間がないなか、春のイベントに向けた準備にいってきました。今回は村にいかず、コルカタのみでしたが、文字通り町を疾走した2日間でした。

 

 

オリジナルのカンタのストールは、息をのむほどステキ・・・でしたが1/5くらいしかできておらず。

 

そんな中、いい商談が2つ。


ひとつは某ヨーロッパ系のストールブランド。CALICOのカディ生地を使いたい&デザインも一緒にやっていきたいとのことで商談が成立しました!

 

また、インドのデザイナーユニット、Maku Textileとのコラボレーションも。ブランドの生い立ち、フィロソフィー、村との関わり、色のトーンなどすごくCALICOと似通っているんです。今はまだ意識的に調査研究の段階にいる・・・という自覚も。(彼らの方がうんと若いですが。。笑)分かち合えることが多いので、彼らの日本向けの製品開発のお手伝いとプロモーションをCALICOが一緒にやることになりました。彼らにはCALICOのアイテムの藍染などを手伝ってもらうことになっています!


暑くてばてそうで、お昼を食べる時間も微妙な私にベンガルトリート(ベンガルのおもてなし)で、カレーを分けてもらいました!瑞々しくて新鮮ですっかり元気に。

 

 

今はデリーに戻って引っ越し後の片づけ中です。まだ40%くらい・・・。日本出発を後4日に控え、まだまだいろいろ山積みですが、来週の今ごろは桜咲く日本。スゴク楽しみです!

 

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Workshop :ブロックプリントでオリジナルハンカチ

デリーでは短い春を祝うホーリー祭が過ぎれば、いっきに夏がやってきます。

 

今回はインドで暮らす日本人女性の方々と一緒にインドの伝統的なブロックプリントでオリジナルハンカチを作成するワークショップを行いました。場所は私たちの良き隣人でもあるフランス人のPaulineが経営する南デリーの住宅街にある小さなブティックホテルScarletteの気持ちの良い風が吹くテラスにて。皆さん同じブロックを使ったのですが、それぞれ個性のあるひと品ができあがりました。

 


インドを代表する伝統技術、ブロックプリントについて少し。

 

 

ブロックプリントの伝統技法は、世界の世界のさまざまな染色技法にも影響を与えています。プロセスは至ってシンプルで、手彫りの木製のスタンプ版を繰り返し押して生地の柄を作り上げていきます。エアコンもない炎天下で何百メートルも行う気の遠くなるような作業を驚くべきスピードで行う職人技は圧巻です。

 

 

繊細なものから、大胆な色使いのものまで多種多様な柄はひとつとして同じものはないほど、全ての行程を手作業で行うため、かすれや滲み、柄のずれ、重なりなど手のぬくもりが感じられる独特の風合いが特徴です。

 

 

花柄に代表される世界的に有名なリバティ、ウィリアム・モリスなどにみられる更紗模様のルーツはインド更紗のブロックプリントの技法、デザインの影響を強く受けていると思われます。

 

 

今でもインドではブロックプリントの技術が伝えられ多くの人々が従事しており地域や環境によっては、仕事を得ることが難しいインドにおいて、雇用の場を生み出し、技術を身につけさせ人々の生活を豊かにすることにも貢献しています。

CALICOではオリジナルのブロックも作成中です。インドの古き良き伝統を生かし、新たにクリエーションしたとっておきの布を皆さまにお伝えできればと思っています。


奇しくもワークショップの日は3月11日でした。
この日、3年前に日本で起こったことを忘れないでいようと多くの方が口々に言われていましたが、今も被災地で頑張っておられる方、被災者やそのご家族のことを思うと1日も早い復興を願わずにはおれません。

晴天にめぐまれたデリーで日本人女性の方々で集まりこのような会ができたことを感謝します。

 

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シルクロードの果て

新年あけましておめでとうございます。


地元の奈良で新年を迎えました。さて、今回は、その奈良とも関係のあるインド布産業が花開いた紀元後のシルクロードの時代について。


シルクロードは、ユーラシア大陸に現れた4つの帝国―漢、クシャーナ朝インド、ペルシア帝国、ローマ帝国―の繁栄に伴ってできあがった交易のネットワークです。すででオリエント世界でその名を轟かせていたインド布ですが、中でもモスリン(薄い上質な綿織物)は「織られた風」と呼ばれ、とりわけ当時のローマ社会で人気を博します。

 

ではシルクロードの中心的な交易品であるはずのシルクはどうでしょうか。

 

実は、シルクは今やインドを代表する布ですが、インド原産ではないのです。当時のインドは中国から原材料である繭を輸入し、絹糸や絹織物をインドで生産し、ローマやペルシア世界に輸出していたといわれています。おそらく、モスリンの生産・流通基盤をうまく活かした新たな物産品として、中国の主要な産物であるシルクを取り込んだのでしょう。

 

もちろん、今ではタッサーやエリに代表されるように、インド国内で生産されている繭も多いのですが、手織物の村はどこも国内外のそれぞれの産地からネットワークを使って繭や絹糸を取り寄せてきていたのです。どの村も、一見取り残されたような素朴な村に見えるのに、意外にも、昔からさまざまな人や物産と、それに伴うデザインや技術が往来し合っていたのでした。

 

そして、そんなネットワークの果ての果てに奈良があったと考えられます。「シルクロードの終着駅」といわれた奈良・正倉院に収蔵されている裂の多くは、今日の中国大陸や韓国半島で織られたものといわれていますが、インドのアジャンタ石窟寺院でもみられるような絣織やペルシア・インドで広範に用いられていた樹下動物モチーフの裂なども残っています。


 

↑インドからみたシルクロード地図には日本はあまりちゃんと書かれていません。子供のころからシルクロードで盛り上がっていた故郷の奈良・・・チョット不憫。


出典:History of Indian Textiles / Calico Museum of Textiles

 

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アイヌ舞踊デリー公演

思いがけず目にしたアイヌ舞踊デリー公演の告知。これはまたとない機会と思い行ってきました。開演前、会場内でせわしく行き来する演者の方を呼び止めアツシ(アトゥシ)織りの長衣をじっくり見せて頂きました。

 

 

インディゴの縦縞の地に独特の曲線をパッチワークで描いておりその大胆な構図はとても個性的で目をひくものでいつもは民族博物館や資料でしか目にしたことのないモノを現地の人のコトバで見聞きすることは私たちのインドでの活動にも通ずる部分があり感慨もひとしお、開演前からテンションが上がります。


クモの巣のようなししゅう【えたらか】は“いいかげんな”という意味だそう。


大胆なコントラストのパッチワーク【からぱみ】の曲線は【もれう】=“ゆっくり”という意味だそう。


インドにも似たような刺しゅうの手法もみられますがその土地にちなんだ呼び名がそれぞれにあり、とても面白いです。

 

アイヌはB.C.15000〜3000年の縄文時代に起源をもつ、日本古来の種族。総勢15名の海外公演は初めてということでしたが、他とは一線を画した独特のリズムと鳥の声を模したようなオゥルルルルゥとはやす声とがアイヌの世界観を表しているようで、インドにいながらにして間近でみることができた貴重な体験でした。

 

スペシャルゲストとしてインド人演歌歌手のチャダさんも、お話には聞いたことがありましたが、目を閉じると日本人の歌手と見まがう程でした。インドの人たちにはどう映ったのでしょうか。

 


更にはミティラー美術館館長長谷川さんのいては即興でインドと日本の都都逸をご披露されなんだか盛りだくさんな夜でした。最後はパンジャビダンス「バングラ」を踊るアイヌの人たちとインドの人たちでフィナーレ。

 

 

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チェンナイ・サントメの旅

11月の後半は、今週天皇皇后両陛下もおいでになる、タミルナドゥ州チェンナイに。

 

私たちの住むデリーとも、布を織っているベンガルとも違う、丸っこい顔つきの柔和な人が多い町です。その中心部から車で15分ほどいったところに、サントメといわれる町があります。そこは、キリストの十二使徒の一人、Saint Thomas(聖トーマス)が、絶命した場所といわれています。(ケララに上陸して、東方に向かって布教の旅を続け、その地でカーリーへの崇拝を拒んだことで殺害されたと伝えられています。)その後、その地にサントメ教会が建立され、その町はサントメと呼ばれるようになったそうです。

 

道路の標識にあるサントメ教会。人と同じに現地語も柔和な雰囲気でかわいいです。

 

サントメ教会の様子。結婚式の最中でした。


鎖国中の江戸時代には、オランダの東インド会社を通じて、このチェンナイの外れのサントメといわれる港町より、インドのキヤリコが日本にもたらされました。

 

日本では、縞模様のキヤリコは江戸の粋人のステータスのように扱われ、それらは出港地に因んで、桟留(サントメ)、唐桟縞、唐桟と呼ばれていました。その粋な模様だけでなく、日本や他の地域にはない、きわめて細い綿糸(80〜120番手)で、密度の濃い独特な綿布が特長でした。また、その流行は日本全国に伝播し、各地でのイミテーション生産、大衆的な桟留生産、綿花栽培を後押ししたといわれます。

 

町に、往時の面影を残すものは殆どみつけられませんでしたが、ベンガル湾を目の前にして、ここから広がっていた日本との繋がりに思いを馳せるのはとても面白いものでした。

 


タミルナドゥをはじめとする南インドは、私たちが今生地を生産している西ベンガル同様、素朴ながらも、歴史と実績のある、しっかりとした生地生産の背景がまだまだ残っている気がします。今度またゆっくり産地をまわってみたいと思います。


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グジャラートの旅

ベンガルの村から一転、まったく正反対の西へ飛行機で2時間半かけて着いたのはパキスタンと国境を接するグジャラート州のアーメダバードという街。ガンディーの出身地でもありインド繊維産業発祥の地とも言えるこの地でボンベイ(現ムンバイ)に並び多くの紡績工場が建てられ、綿布の通称であった「キャリコ」が海を渡超えて世界中に渡っていったのです。


布が好きな人、布に関わる仕事に携わっている人であればぜひ一度は訪れて欲しい場所。館内が撮影禁止で写真をお見せできないのが残念!!

 



布をめぐる旅では外すことのできない“ キャリコ博物館 ”はほかの地では見ることの出来ない古くからアラビア海交易によって富を得た藩王や貴族のコレクションやなどインド国中の国宝に値するテキスタイルの数々を見ることができるとっておきの場所なのです。


私設の博物館なので規模は決して大きくはないものの古い貴族の邸宅ハヴェリを移築した趣のある外観と緑に囲まれた敷地も素敵ですが、300年以上を遡るコレクションピースそのひとつひとつがためいきが出るくらい素晴らしい手仕事によるもので学芸員の女性が丁寧に説明してくれます。


限られた時間内でのツアーは名残惜しく何度でも訪れたいと後ろ髪を引かれる思いで博物館をあとにしたのでした。


他にもル・コルビジュエが手がけた繊維会館や有名なデザイナーを輩出しているインド屈指のテキスタイル学科があるNID(National Institute of Design)へ訪問したほかアーメダバードの旧市街をめぐるヘリテージナイトツアーなどなど短い時間でしたが大満喫!!

 

 

じつはおまけがあって、帰りしな学芸員さんがこっそり教えてくれた市街地にあるというアートブックセンターなるものに行ってみたところ...世界中のテキスタイルとアートの本が四方天井までぎっしりの本屋さんで何時間いてもあきない...困った!

悩みに悩んで購入したのがこちら↓

『古渡り更紗』。やはり知りたくなるのは日本とインドを渡った布のこと。どんなに遠くても時間を作って足を使って一流のものを見る時間は必要と再認識、過去の偉人達の技に刺激を受けたアーメダバード旅でした。

 

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ベンガルの旅

少し肌寒くなってきた11月の中旬。デリーで開催されたJapan Monthの合間に、コルカタといつもの村に行ってきました。

 

今回の目的は、今オーダーしている生地がきちんとできてきているか確認することと、春に向けて新しい生地サンプルをつくリ出すこと、私たちと同じように村の布を愛し、クリエーションしているインド人のデザイナー仲間に会いにいくこと、そしてCALICOのモデルをしてくれているアーティスト松井香楠子ちゃんのインドでの初の個展(@Weavers Studio)をみにいくことでした。これまたモリダクサンな旅となりました。


複雑なデニムのカディーコットン生地を、やさしい風合いに仕立て上げて下さるのは熟練した織人さんの手。


オリッサ州のオレンジガムチャにインスパイアされた色と、定番のブルーx白です。デニムの常識を変える、ふんわりしたやわらかさです。こちらはタオルやインテリアリネンとして日本にご紹介の予定です。お洋服も少しつくるかもしれません。


屋根から垂れ下がる織りパターンの冊。

 

熟練した織人さんはパターンをみて、柄が思い浮かぶそうです。ITのプログラマーみたいですね。これを設計する工程、縦糸、緯糸とは別の糸を織り機に組み込む工程・・・インドでITが発達したのもこの辺りに何か理由があるのかもしれません。

 

そして、今回の何よりの収穫は、ベンガルを拠点にするデザイナー仲間との出会い。CALICOのfacebookをみて、問い合わせてくれたのです!それはそれは繊細で素晴らしいものをつくっていて、私たち自身がとりこになりました。


作家性やデザイン性よりも布の豊かさや産業持続性に焦点を合わせた活動姿勢や、活動がまだ駆け出しというところでも少し似ている私たちは(彼らは私たちよりもずいぶん若いということはさておいて・・・笑)、お互いがインドと日本で少しずつ助け合っていこうということになりました。

 

またそのうち、私たちのコラボレーションをちょっとずつご紹介できればと思います。

 

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カンタ刺繍の村 Krishna Kisor家

久々のカンタ刺繍の村。

 

秋晴れの中、コルカタから電車で3時間、車で2時間かけて訪れました。電車の中は、ガムチャ売りのおじさんに、ハーモニウム(リード・オルガン)を弾くおじさん。哀愁たっぷりで、ベンガルにいるって気にさせられます。

 


道中はいろんなアニマルたちとすれ違います。小さなヤギや犬が道路で立ち往生していることもしばしば。この辺りの運転手は動じることなく上手に除けていきます。

 


カンタの村といっても、カンタ(刺繍)だけでありません。生地そのものを織るために、生糸をひっぱり(写真奥)、繰るところから村の中でやっています。


彩色を施す人も。今回であったビューティたち。


もはや、神秘です。


 

 

村の中で布への彩色や刺繍を手掛ける工房をやっているKrishnaさん一家。


彼は元々刺繍などを教える学校の先生でした。彼のデザインしたものも多いです。村の若者中心に、22人もの人が彼の家で働いています。今回は、日本でカンタ刺繍を扱いだしたわたしたちが、これまで日本のお客様たちからいただいてきたさまざまなリクエストや期待を彼らに託してきました。


ただ、これまでも同じように託してきたのですが、時間がかかるうえ、作り手さんたちがそれぞれ作りたいものがあって思った通りにいかないことが多いのも事実。作りたいものを作るからこそ、あのチクチクの根気に耐え、素晴らしいものに仕上がるとも思います。実際、わたしたちが頼むもの以上に、涙を流したいすばらしいデザインが本当にたくさんあります。


彼らが伝統的にやってきていること、創意工夫でやってきていることと、人々がほしいと思っているもの(サイズやクオリティ、ちょっとしたテイストや趣向など)の交差点で、一緒に新しいアートプロダクツを生みだしていけたらステキだなあと思っています。


何か月か先には日本の皆様のお手元にも届くと思います。お楽しみに!


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