サリーのパッチワーク

2013年、奈良の小さなホテル「奈良倶楽部」さんで開催されていたポジャギ展に出かけた。インドに住んで3年以上が経ち、たまにいる日本でインド以外のものを目にしたくなった。

 

ポジャギは、韓国の苧麻のハギレを少しも粗末にせず大切に繕ったパッチワーク。韓国の伝統的な布の仕事である。その精緻に重なる裂の愛おしさにクラクラした。興奮している私をみて話しかけてくださった方が、その展を主催されたポシャギ作家の中野啓子さんだった。

 

その頃キヤリコは、今よりもずいぶんサリーの生地を使ったお洋服をやっていた。糊のついた強張ったベンガルのコットンサリー。どんな端切れも素敵で、捨てずにとってあった。それを中野啓子さんにお渡しし、サリーのハギレでポシャギを作っていただくことになった。


それは贅沢な一品となり、急遽京都のジャワ更紗イシスさんでの展示会に飾っていただくことになった。

 

中野啓子さんとサリーのハギレで作られたポジャギ


そして、それに刺激を受けたキヤリコでもサリーのパッチワークを作りたいと思うようになり、MAKUにサンプル生産をお願いした。(当時のMAKUはまだまだ生産キャパに余裕があり、受託の生産も受けてくれた。今はこのサリーパッチワークを除いては行っていない。)

 

ポジャギが、布を重ね両側の接面を手縫いする、非常に手間のかかるものであるのに対し、こちらのパッチワークはミシン縫いで作られる。本家のポジャギに敬意を表してこちらのものはサリーパッチワークと呼んでいる。

 

白のサリーパッチワークは特に日本で人気である。ただ、ベンガルでは寡婦が着るサリーとされ、農村でもその習慣が廃れるに伴って入手が困難になってきている。

 

水洗いを数回行っても糊がまだ少し残り、張りがあるので、ポジャギに似た質感を楽しめる。

 

白のサリーパッチワーク


MAKUの工房で、丁寧にインド藍で染めたものは柔らかく、使って水通しするごとに、色がくすみ、褪めていく。その過程もまた美しい。

 

元のサリーに、赤や黄色の透かし織が入っていたりすると、その部分だけ紫や緑にかかった色となり、ほんのりした鮮やかさを楽しめる。作品によって、随分色域が違うので実物で見比べていただきたい。

 

photo by Yayoi Arimoto

 

サリーパッチワークは 大判の多目的布(150cmx220cm)と ストール(100cmx200cm)で展開しているが、多目的布もショールになるし、ストールも多目的布になる。(上の写真は多目的布)

是非あまり名前を気にせずお使いいただきたい。一番のオススメは、窓辺に飾り様々な意匠で織られた柄を透かして眺めることだ。

 

徳島の遠近さんの店内で、光を受けて風になびく様子


ときどき選ぶサリーの色目が変わるのも楽しい。

 

2017年に登場した赤白サリーのシリーズ


サリーパッチワークシリーズは、ベンガルの日常の表情を少し生活に取り入れてみる試み。

そのときどきに少しずつ変わる作品を楽しみにしてください。

 

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ペルシアの職人とイスラム商人 グジャラート州アーメダバードより

先日ちょうどタイミングよくインドにいらした京都ジャワ更紗ISISの石田さんと共に、織都アーメダバードのCALICO博物館を再訪してきました。


前回オリッサと東南アジアのつながりについて少し書かせていただきましたが、CALICO博物館のあるグジャラート州もインドネシアの王様から受注を受けて、有名なパトラという絣の技法で獅子模様などを織っていたとのこと、それらに影響を受けて東南アジアでもイカット(絣織)が織られるようになったのではないかと考えられているそうです。インド布の伝播力は当時からすごかったのですね。


CALICO博物館では、写真が撮れないことも幸いして、とにかく素直に感動し、興奮し、よく目にやきつけてきました。ブロックプリントが広く普及する以前の気の遠くなるような織や刺繍の技術。今はこうした手仕事の職人が仮にいたとしても、誰がオーダーをかけるでしょうか。現代では成功者はポロシャツにジーンズを穿いていますものね。そうやって技術や伝統が廃れていってしまうのは嫌だと思いました。

 

今回は前置きがとても長くなりましたが、今日は、そんなアーメダバードとも関わりの深い、ペルシアの職人とイスラム商人のお話です。7世紀、預言者ムハンマドが出現してからインドにもアラブの時代がやってきます。アフガニスタン、バルチスタンに続くペルシア帝国が没落し、アラビア海軍が現在のパキスタンやグジャラート州周辺に現れるようになりました。


実は、インド布に関して当時の歴史資料といえば、14-15世紀頃の綿布片がエジプトの諸都市で見つかったことくらいしかないのですが、13世紀トルコ・アフガン勢の支配下にあった北西インドに、モンゴル帝国が中央アジアを征服すると、ペルシア帝国から脱出した職人たちがインド大陸に流れこみ、デリースルタン王朝の庇護の下、ペルシアの影響の強い様々な文化が開花したそうです。


今でもインドでは、政府が手織産業・手仕事産業を保護・育成する側面を強くもっていますが、当時も官製の工房“Kharkhanahs”が各拠点に設立され、数多の私設工房と並んで生産を行っていたのです。


今私たちがインド的と思ってみている唐草模様や花柄の刺繍模様などは殆どこの当時のペルシアの職人がもたらし、ムガール帝国の財力を背景に確立されたといっても過言ではありません。それは刺繍職人や刺繍の贅沢を味わう身分の為政者がいなくなった後もブロックプリントのデザインとして引き継がれていったのです。


またその頃、ベンガルとグジャラートで生産された織物はHindus(現在のパキスタン・北インドの人々)の手によって東南アジアに輸出されていましたが、やがて、イスラム商人たちの手にゆだねられることになりました。それによって、イスラム文化が東南アジアに拡散していき、東インド会社が設立されるまでの数百年間、イスラム商人たちが東南アジアの香辛料をヨーロッパに輸出する中心的な役割を担うことになるのです。



写真はCALICO博物館。グジャラート州アーメダバードにあります。注:事前アポイントが必要です。

Source: History of Indian Textiles by Calico Museum of Textiles

 

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シルクロードの果て

新年あけましておめでとうございます。


地元の奈良で新年を迎えました。さて、今回は、その奈良とも関係のあるインド布産業が花開いた紀元後のシルクロードの時代について。


シルクロードは、ユーラシア大陸に現れた4つの帝国―漢、クシャーナ朝インド、ペルシア帝国、ローマ帝国―の繁栄に伴ってできあがった交易のネットワークです。すででオリエント世界でその名を轟かせていたインド布ですが、中でもモスリン(薄い上質な綿織物)は「織られた風」と呼ばれ、とりわけ当時のローマ社会で人気を博します。

 

ではシルクロードの中心的な交易品であるはずのシルクはどうでしょうか。

 

実は、シルクは今やインドを代表する布ですが、インド原産ではないのです。当時のインドは中国から原材料である繭を輸入し、絹糸や絹織物をインドで生産し、ローマやペルシア世界に輸出していたといわれています。おそらく、モスリンの生産・流通基盤をうまく活かした新たな物産品として、中国の主要な産物であるシルクを取り込んだのでしょう。

 

もちろん、今ではタッサーやエリに代表されるように、インド国内で生産されている繭も多いのですが、手織物の村はどこも国内外のそれぞれの産地からネットワークを使って繭や絹糸を取り寄せてきていたのです。どの村も、一見取り残されたような素朴な村に見えるのに、意外にも、昔からさまざまな人や物産と、それに伴うデザインや技術が往来し合っていたのでした。

 

そして、そんなネットワークの果ての果てに奈良があったと考えられます。「シルクロードの終着駅」といわれた奈良・正倉院に収蔵されている裂の多くは、今日の中国大陸や韓国半島で織られたものといわれていますが、インドのアジャンタ石窟寺院でもみられるような絣織やペルシア・インドで広範に用いられていた樹下動物モチーフの裂なども残っています。


 

↑インドからみたシルクロード地図には日本はあまりちゃんと書かれていません。子供のころからシルクロードで盛り上がっていた故郷の奈良・・・チョット不憫。


出典:History of Indian Textiles / Calico Museum of Textiles

 

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羊のなる木

こんにちは。ただいま日本行商ツアー中のCALICOです。

 

インド布の歴史のつづき。インダス文明から時代は流れて、紀元前10〜3世紀のお話です。

 

ときのインドは、マウリア朝の時代。綿、羊毛、大麻、麻、絹(当時は中国から輸入)などの織物の生産がされていたようで、紀元前10〜5世紀のヴェーダの教典にもインドの布についての記述がみられます。アレクサンダー大王の東征を経て、インド布はギリシアやペルシアといったヘレニズム世界に広く知れ渡ることになりました。

 

紀元前3世紀、マウリア朝チャンドラグプタの秘書官も、その記録に「織物はもっとも重要な交易品である」と残し、かのヘロドトスは、「インドには羊毛の実をつける木があり、それは羊を超える美しさと素晴らしさだ」と褒め讃えています。

 


上の画は、ヘロドトスが褒め称えたインドの綿。木から羊が生えてきています。想像力が豊かなような、豊かじゃないような・・・。

 

出典:History of Indian Textiles / Calico Museum of Textiles
画像:Wikipedia

 

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インダスのミツバ印

中南米と並び、世界の綿花の原産地といわれるインド。

 

その歴史はとても古く、紀元前5千年から3千年頃には、インダス川流域で綿花栽培、綿織物の生産がはじめられていたそうです。紀元前2500〜1800年ごろのモヘンジョ・ダロ遺跡(現在のパキスタン)では茜染めの布片が出土しており、それが確認されている最古の布片だとか。同遺跡から出土した神官像には、今みても斬新・大胆なミツバ文様の布が刻まれています。

 

 

マジメな顔してポップなミツバ柄の布巻いている、このコントラスト。これは当時一般的な柄だったのか、この神官が好んだトレードマーク(ミツバ印)だったのか。今となっては知るすべもありませんが、現代インド人にも引き継がれる豊かなアソビゴコロを垣間みるようです。

 

出典:History of Indian Textiles / Calico Museum of Textiles
画像:Wikipedia

 

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インド布の歴史 プロローグ

新年あけましておめでとうございます。

 

今日は奈良で、来週の神戸大学でのセミナー「インドの布の世界」に備えて準備をしています。今回、インドの布の歴史を改めて整理してみました。実に実にパワフルです。日本とのつながりも断片的に分かっていたことがいろいろ繋がってきました。

 

インドに布(キャリコ)がなかったら、イギリスも日本も産業が発展していなかったかもしれない

 

インドのようなキャリコを作れるようになることが産業革命の動機になったのです。

 

インドに布(キャリコ)がなかったら、インドは侵略や搾取に苦しまなかったかもしれない

 

17-18cのヨーロッパや日本で人気を博したのは、絹ではなくそれよりも高価な花文様や縞模様のインド綿でした。各国の東インド会社はインドを布の供給地・消費地とし、ヨーロッパの帝国がインドの植民地支配をするきっかけを与えました。

 

では、今、インドに布(キャリコ)があったとして、それはこれからインドやセカイ、ニホンにどんな影響を与えるか。

 

今回、日本に帰ってきて、手紡ぎ・手織りの布をグルグル巻いてくれたひとびとの楽しい表情を思い出すと、何かいい兆しを感じます。そして、機織りの音が幾代にも亘って侵略や搾取に遭い続けたインド人の精神を安定させてきたように、それを使う人の気持ちをも和らげ、美しい調和のとれた生活に欠くべかざるものになっていくような気がしています。これから、ブログでもインドの布の歴史を少しずつ紹介していきます。

 

更紗 17世紀 Victoria & Albert Museum 所蔵

 

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