手紡ぎ糸の村 カディはただの道楽にあらず

手紡ぎ糸の村のシリーズの続きです。

 

ベンガルの女性たちは、粘り強く、よく働きます。家族を送り出した朝10時くらいから、インドのランチタイムである2時くらいまで、手紡ぎ糸のセンターにやってきて、短期集中で働き、その後家に帰った後は、家事や夕食の支度をしています。

 

 

北の女性が働き者でないという意味ではありませんが、多くの北インドの村は、イスラム社会の影響が強いためか封建的で、働くのは男性、女性は家のなかにいるべきと考えられていることが多く、なかなか就業機会や外の世界の接点に恵まれずにいます。それはそれで(DVなど)いろんな問題があるのですが、経済的には守られているともいえます。

 

また、北インドに限らず、インドの多くの州では、政策(公共事業や企業誘致)などによって男性には仕事が与えられ、出稼ぎなどしながらも働ける環境が整備されていますが、それに比べると、ベンガルは、バングラデシュからの移民が多く、州政府もうまく対策できていないため、慢性的に雇用の供給が過多です。

 

そうした背景もあってか、男性があまり働かない、いえ、働くことができないようです。また北インドに比べると、女性が、比較的開放されていて、結構切り盛りしています。そのためか、男性は働きもせず、離婚もせず、ふらっとどこか他所の土地に行ったまま帰ってこないようなケースも多く、女性はどこかで常に自立を意識しているような気がします。

 

特にわたしたちが訪れた手紡ぎ糸の村は、ムスリムのコミュニティ出身の女性が多く、ヒンドゥー教の強い西ベンガル州において、一層職業機会に乏しく、経済的理由から家族が離れ離れになり、先に述べたように、旦那さんがそのまま戻ってこないケースが後を絶たないそうです。

 

こちらのムスリム・コミュニティ出身の彼女も、家で頼るべき人が失踪してしまい、日々手紡ぎの仕事をすることで、2人の子供を食べさせています。

 

 

特に、女児を抱えている親は、女児が年頃になると、ダウリ―という持参金を準備して、なるべく裕福な家に嫁がせないといけないという意識が強いです。こうして一生懸命稼いだお金を、子供の教育に使うのではなく、決してその子どもの幸せが保証されているわけでもないダウリ―に使う、ということには大きな疑問を感じますが・・・・。


貧しいベンガルの村においては、ダウリ―を用意できる親はむしろ幸せで、将来ダウリ―を用意できないと絶望し、家族が食べていくためには女児を売春宿に売るしかないと思う親も多いのです。事実、西ベンガルの州都コルカタにはアジア最大の売春街があり、そうした売春組織への仲介システムは村々に存在しています。


そうした生産の背景にあることをいろいろ考えると、特別な技術がなくても多くの村の女性が関われる仕事をつくること、アンバーチャルカで手紡ぎの糸をつくり続けること、そして、私たちが都市においてカディを使い、纏い続けることは、カディの風合いがいかにいいか素晴らしいか贅沢かというような、都市生活者の道楽や酔狂に付き合い消費されるだけでは決してない、私たちの日常の想像をはるかに超える尊い意味合いをもっています。

 

 

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手紡ぎ糸の村 アンバーチャルカは手紡ぎといえるのか

昨日ご紹介したアンバーチャルカ。お読みになった方によっては、「ガンジーチャルカじゃないなんて本当の手紡ぎじゃない。」「手紡ぎといってだましているみたいだ。」いろんな感想をお持ちでしょう。

 


でも手紡ぎってなんでしょう。なんのための手紡ぎであり、カディなのでしょうか。

私自身は、ガンジーが独立運動のころに、シングルチャルカ(ガンジーチャルカ)を普及させたのと同じように、現代においては、アンバーチャルカが実用性・効率性から普及されるべきと思っており、その役割を以下のように理解しています。

ひとつは、生産効率が高まることで、関わる人が食べていけるような仕組みになること。一回転でコーンが6つ〜8つ作れるようになることと、手ではなく機械圧縮による押し出しで糸を撚ることにより、シングルチャルカの何倍もの効率で糸を作れるようになります。それはすなわち、出来高で支払われる彼女たちにとって、お給料が増えることを意味します。

 

 

また、均一な仕上げのために、ある一定水準の技術・技量が要求されたシングルチャルカに比べると、アンバーチャルカはだれでもが一定品質で糸を作れます。(もちろんアンバーチャルカも技術を要しますが。)それは農村での就業機会が増えることを意味します。

 

40カウントの太糸を紡ぐ女性。

 

また、私たちにとって、カディ糸を安定的に一定の基準で作れることは、生地品質の安定を意味します。このようにしてつくられたカディ糸は、緯糸だけでなく縦糸としても使うことができます。(日本に普及している手紡ぎ・手織りカディは、緯糸のみ手紡ぎでカディと呼ばれているものものが多いですが、CALICOのカディはほとんどのものが、縦糸も緯糸も手紡ぎです。)シングルチャルカはその姿としてもとても美しいものではありますが、それだけで上述にあるようなすべてを実現することは遠い理想になりつつあります。

 

しかし、今回の訪問で最も衝撃的だったのは、最近モーターを取り付けたアンバーチャルカが、村の個人企業の中で普及しだしているとのこと。それはもはや手紡ぎではないと私ですら思うのですが、関わる女性たち(糸も手回しに比べると切れにくいのですが、切れたら直すために配置されている)の収入がまた手回しの倍になることを考えると、誰もその流れを否定することはできません。ソーラーパネルをつけたソーラーチャルカというものでてきています。とてもいいことだと思います。

 

とうとう、出会ってしまった。電動アンバーチャルカ。

でもどうやらうちではほとんど使うことのない、太糸しかできない様子。(ホッ)

 

 

ガンジーチャルカがアンバーチャルカに置き換わった変化に比べると、手回しと電動に、どれほどの違いがあるのか。悩ましいところです。ただ、それを手紡ぎと偽って市場に出してしまうと、アンバーチャルカを導入しても尚、保たれてきた手紡ぎ・手織りカディの価値そのものが、市場での信頼を失うことになりかねないかと危惧します。

(つづく)

 

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手紡ぎ糸の村 アンバーチャルカの村へ

約2か月ぶりのベンガルは、すっかり春らしく、温かな陽気に包まれていました。
今回は、カディの生産パートナーと一緒に、久々にカディ用の手紡ぎ糸をつくっているベンガル北部の村(ムルシダバード近郊)まで足を運びました。


インドで一番最初に建設された駅といわれるKOLKATAのSEALDAH駅から、電車に揺られること4時間。早朝から飛行機に乗り、KOLKATAでしっかりミーティングをしてから電車に乗り込んだからか、電車旅の前半は疲れて、爆睡。何も思い出せません。時折、食べ物や飲み物を売りにくるひとに小突かれたり、美味しそうな匂いで臭覚を刺激された気がしますが・・・

 

列車の定番スナック ジャラムリ。

次々と見事な手つきで、お米のパフにマサラやココナッツを入れ、〆にはマスタードオイルをサラッとかけます。

 

 

車内パトロールする小さなギャングたち。

 

目的地到着は夜中の11時頃。

そのままホテルに直行して泊まり、翌朝車で約1時間離れた村に向かいました。


前回訪問したのは、約2年前。そのときにたくさん写真やビデオを撮ったのですが、直後にパソコンを壊してしまい、すでに資料に取り込んでいた何枚かを除いてすべて失ってしまったのです。その悔しさもあって、今回はたくさんの生産の様子をカメラに収めてきました。 (ちなみに今もパソコンが半壊しておりますが、今回はCloudサービスがあるので大丈夫なはず。便利な世の中です。)


手紡ぎ糸をつくっている工房の様子。前回訪問時よりも、手紡ぎを担当する女性の数が増えており、こちらでは現在約300名が登録しています。

 

 

以前にもご紹介の通り、現在CALICOで作っているカディは、最もシンプルで原始的な糸紡ぎの道具タクリ(スピンドル)や、ガンジーがインド独立のシンボルとして広く普及したといわれるシングルチャルカ(俗称 ガンジーチャルカ)ではなく、10年ほど前から広まったアンバーチャルカといわれる一段機械化が進み、生産性が高まったチャルカを使って紡いだ糸を使っています。

 

 

 

アンバーチャルカは、ひとの手による回転を動力に、ネジで鉄のプレスの圧力を調節して糸を撚り、6本、7本、8本のコーンを一度につくれるようになっています。ひとの力が加わることで、糸に揺らぎが加わる仕掛けです。そのため、原始的な糸紡ぎと同様に糸も切れやすく、切れては直し、その直した箇所に味わい深いネップができるようになっています。

 

写真は切れた糸を撚ってつなげている様子。


次回は、そんなアンバーチャルカを使う意義について触れたいと思います。

(つづく)


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バングラデシュ ジャムダニサリーとモスリン

バングラデシュ篇 第4回目です。

そもそも、なぜ”インド布のCALICO”が、バングラデシュにいるのかと不思議に思われるかもしれません。・・・そう、CALICOは、インドという国の生地を扱うのではなく、広くインド大陸に伝わる布を扱っているんです!

 

バングラデシュは地図でみると、インド大陸の中、西ベンガルの真隣にあります。大戦中、独立運動が一番盛んだったベンガルは、インドの弱体化を狙ういろんな国・宗教的立場の意図で別れてしまったのです。元々東ベンガル、今のバングラデシュは、CALICOが足繁く通うインドの西ベンガル州と同じ風土・文化を分け合う土地でした。

 

 

西ベンガルと同じように、いえそれ以上に、手織物や手仕事布の文化は深く、特にダッカ、タンガイルといった場所は、西ベンガルの多くのジャムダニサリーが、ダカイジャムダニ(ダッカのジャムダニ)、タンガイルサリーとも呼ばれるように、ジャムダニの元々のルーツと考えられています。西ベンガルでジャムダニを織っている職人さんの多くはダッカやタンガイルにいたヒンドゥー教徒で東ベンガルがイスラムの色を強めた今から100年に移住してきたのでした。

 

今回は、LIVING BLUEの生産現場Rangpurにいく途中、運よくタンガイルに寄ることができました。西ベンガルでみるタンガイルと比べると、デザインがイスラム的でとても新鮮でステキでした。総柄も多いです。ジャムダニも西ベンガルよりもたくさんの数が流通しており、私たちがよくジャムダニと信じているものは、殆どダッカを起源とするものだと判りました。

 

 

飛び杼を使ってタンガイルサリーを織っているところです。実物をみたのは初めてです。

 

パンチカードがゆっくり繰られていきます。


 
ところで、ダッカいえばモスリン(とても上質で織りが細かいコットン布)なのですが、どこを訪ねてもなかなかモスリンは出てきません。ダッカの有名なサリー街で10軒ほど回りましたが、10軒ともモスリンというとシルクがでてきます。かつてのモスリンに代わるものは、シルクになってしまったのでしょうか。

 

かつてバングラデシュで栽培されていたモスリン綿自体が生産されておらず、かつての品質のものはもはや存在しないということのようです。(コットンヤーンはパキスタンから、シルクヤーンはインドや中国から輸入しているものが多いそうです。)

西ベンガルで流通している現代版モスリンには、300カウントや400カウントのものもありますが、以前と同じモスリン綿ではなく現在でできうる最善のものということだそう。

 

世界で最上と言われたモスリン。ダッカが世界の縫製工場となって久しいですが、土地由来の伝統布についても、今後現地の方々と一緒に取り組んでいけたらいいなと思っております。

 

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新しい織人さん

インド全土で430万人いるといわれる織人さん。

 

世界的にみても圧倒的な数なのですが、そんなインドにおいてさえ、都会に近い村からどんどん若者が町に出てしまい、後継者が減っていくのが悩みの種です。都会にいい仕事があればいいですが、西ベンガル州はそもそも開発が遅れている上、バングラデシュからの移民も多く、労働力は供給過多の状態。都会で生きるのも簡単ではありません。


わたしたちのパートナーやソサエティ(地域の共同組合)は、織人さんの暮らしを維持し、産業を育成するために、工賃の見直しをしたり、ローンの制度を整備したり、研修プログラムを設けたり、販売・マーケティングを支援したりと様々な取り組みを行ってきています。


そんな努力の甲斐もあり、産業革命以降下降の一途を辿っていた手織物産業の規模は、なんと2004年以降少しずつ回復しています。近頃はカディーの村でも、織人のカーストではない若者が、織人さんになりたくてやってきてくることもあるそうです。

 

Sushant Kunduさんは、23歳。数年前から村に通うようになり、村で織機を借りて織る仕事をはじめました。小屋には大体ひとり、名人級の織人さんがいて、彼からいろんな技術や智恵を伝授されるそうです。

 

 

織人さんの工賃は月に大体4,000ルピーから5,000ルピー。決して高くありませんが、家族のいる村の近くで働けること、町での日雇いなどと違って将来は安心できるなどのメリットがあります。


彼は、「この仕事がスキだ。続けていきたい。」といっています。


わたしたちCALICOは、サリーをつくってきた織人さんたちと、彼らの手紡ぎ・手織りの技術を駆使してステキな製品を新しく生み出し、日本や他の国に送り届けることで村の産業が継続するように、そして、それらの商品を心から喜ぶ人々がいると伝えていくことで、その仕事に誇りをもってもらえるようにと願い活動をしています。


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エアリーの村

わたしたちのカディーを織っている村へ。素晴らしい秋晴れ(でもまだかなり暑い・・・)でしたが、大雨が続いたためか道が凸凹で、今回はコルカタから車で往復10時間くらいかかってしまいました。

 

 

 

村は緑が多く、木洩れ日の美しい小路が続きます。パタンパタン、カタンカタンという機織りの音と、たくさんの子供たちに囲まれます。

 

 

 

緯糸カディーのエアリーストールを織ってくれた職人さんのひとり、Jay Devpalさん。


この道35年のベテランで、難しい仕事はだいたい彼のところにくるそうです。上半身ハダカでルンギとガムチャだけを纏う職人さんが多い中、シャツにメガネのインテリ風情です。わたしたちのエアリーをもって記念撮影。「エアリーがとても好評なんです。ありがとうございます」と伝えたら、恥ずかしそうながらもとても喜んでくれました。


新しい織りを進めるJayさん。

 

Jayさんは同じ小屋で働く他の若い織人さんたちにもその技術を伝えています。


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西ベンガルの村々とカディー

インドの手紡ぎ・手織りのコットン布をカディーといい、その薄い風合い、着心地の良さから、世界中で根強いファンの方がいますが、この暑さで日本のファンの方もじわじわ増えているような気もします。

 

私たちは、カディーの中でも西ベンガル州で織られている薄くて繊細な生地をとても気に入って、現地のソサエティ(村単位での生産団体)をネットワークで結び、販売・マーケティングを支援する現地パートナーと一緒に、デザイン企画・生産を行っています。


私たちも月に1回ほど西ベンガルに行きますが、村々を回るのは本当に大変です。私たちの現地パートナーは、コルカタから3時間近く電車に乗って、2時間近く車に乗って、中々あかない踏切を待って、飛び出す牛やアヒルの群れを除け、、、漸く村に辿り着きます。彼らは、そんな村々を繰り返し訪問し、オーダー内容をしっかり伝えて、再び村村からサンプルを集めて、また訪れて、冠婚葬祭やお祭りや病気や雨で、スケジュール通り進まないのが常の生産の進捗の様子をみて、製品を回収します。


ときには、織人さんの健康状態や経済状態を気遣い、オーダーを少なくしたり、多くしたり。複雑な織りが得意な織人さんがいる村や、新しいデザインにチャレンジしたがる織人さんがいる村もあります。私たちとの企画を固めたら、彼らはそのオーダーをベストな村に詫します。


彼らの頭の中には、完全に西ベンガルの機織り村の地図ができあがっているのです。そして後継者層の分布も。これは一番難しいテーマでもあります。この話はおいおいまたお伝えさせていただきます。


写真は、出来上がってきたカディー。きれいなオフホワイトとインディゴのストライプ(左側)から、土臭さが残るアイボリーとインディゴのストライプ(右側)まで。


糸を準備し、染めるのも、織るのも、集中化されておらず、村々でやっているので、同じオーダーの製品も色や柄にもばらつきがでることもしばしばです。センターをつくると、均一化でき、品質は向上するかもしれませんが、今まで村の中だからこそ家から通いながら続けられた女性たちのシゴトがなくなってしまう可能性もあります。


手織り布にまつわるシゴトは原則村の中で、というのが、「チャルカは村という太陽系における太陽だ。チャルカが回っていると、村にさまざまなシゴト(手紡ぎや整経、染め、織り、洗いなど)がもたらされる」といっていたガンジーさんの教えそのものなのです。


そんなわけで、私たちのお届けする布は、ひとつひとつ、少しずつ色や柄が違うこともありますが、そんなことからも広大インド、西ベンガルの情景を、村のシゴトを想像していただけるとうれしく思います。


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カディーへのおもい


乾期に入った北インドに位置するデリーは朝晩ぐっと冷え込む季節になってきました。インドではこの時期はお祭りや結婚シーズンにあたります。

 

冠婚葬祭は奮発して着飾る習慣が根強く残っているインドでは、サリーを含め豪華な装飾を施し洋装にアレンジした現代版民族調ドレスなどで彩られています。一方で大量生産の洋服も増えて、温もりのある伝統的な装いは廃れつつあります。そんなインドの装いの歴史において無視できないのが、カディーといわれる手紬・手織りの布です。


私を含めカディーに魅せられる人は多いです。かのインド建国の父と呼ばれたマハトマ・ガンディーが当時インドを植民地支配していた英国製の機械織りに対抗し、自分たちでも布を織れるようにと普及に努めた布カディー(Kadhi)は今でもインドの人々に愛され続けています。

 

 

ガンディーが晩年に腰に巻いていた白い布もカディーでした。

 

インドには他の多くの国が失ってしまった古来の文化に根付いた素晴らしい手仕事の技術を持った職人さんがたくさんいらっしゃいます。気の遠くなるような手間ひまをかけて仕上げたものは本当に素晴らしく、芸術品に相当するものも少なくありません。しかし時代の波に押され、短期間で効率的に大量生産ができない上に均一に品質が保てないという理由で敬遠されているのも事実です。

 

こちらに住んで実際にコットン栽培の農家を訪れ畑に綿花の実がなり収穫される様子を見ていると、それらが糸になり生地になり‘洋服’というかたちになって日本のみなさんの手元に届くまでに実に本当に多くの人が関わっていることがわかります。

 

私にできることはインドでカタチにすることとインドと日本の皆さんをつなげるきっかけを作ること。CALICOではモノづくりを通してそれらのプロセスをもっと多くの方々に知ってもらえたらと思っています。

 

 

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